関西電鉄歴史案(河南車庫編)











関西電鉄・歴史案(河南車庫編)

ここでは、「河南車庫」に登場する「旧型車」の設定の下敷きとなっている
「歴史案」について紹介しています。

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○開業期〜戦時・「関西電鉄」の原点○
<歴史路線図>

☆Index☆
〜北部地域〜 綴電軌と關西電気鐵道

〜南部地域〜 南海鉄道と大鉄・大軌(参急)の縄張り争い

〜支線群〜 北河内電鉄と犬鳴電鉄

〜そして戦時体制へ〜 戦時統合と関西電鉄



〜北部地域〜 綴電軌と關西電気鐵道 

関西電鉄は、6つの私鉄が合併して出来た「標準軌」と「狭軌」、2つの軌間を持った「関西の大手私鉄」である。
ここでは、前身の6社と共に、「関西電鉄」の歴史を紹介する。

まずはじめに、他の路線とは軌間が違う「学研本線系」(だけ標準軌。他は狭軌)の歴史であるが、この区間を開業させたのは「四条畷電軌」という会社で、1928(昭和3)年6月26日に、天~橋〜大枝(今の新守口)間を開業させた。(現在の学研本線・天~橋線)
(6月26日は、関西電鉄の設立日となっている。)
計画当時、大阪市電に乗り入れて、市内中心部を目指そうとしたのだが、「低速の市電規格」で運転するより、「高速の郊外型電車」で、「市電とのターミナル」で接続した方が良いとの理由で計画変更、「市電」とは「天~橋」で接続する事にして開業した。がしかし、当時四条畷電軌が走る沿線は、住民が少ない地域で、営業的には上手く行かなかった。

いっぽう、現在の本線北部は、「松下」の手によって作られた。
それは、「關西電気鐵道」といい、ちょうど「松下」が「事業拡大」を図った時期と重なり、1933(昭和8)年2月に、鶴橋〜守口松下(今の八雲(松下本社前)間を開業、自社製の「100型」電車が走り始めた。
その2年前には、経営難に喘ぐ「四条畷電軌」を買収、「關西電気鐵道・四条畷線」とし、電鉄経営のノウハウを学んだ。

ここで、なぜ初期開業区間が、当時市域ではない「鶴橋〜守口間」なのか? という疑問が湧くが、「うわさ」の1つとして、「松下の創業者」が「初めて独立して商売を始めた場所」(東成の猪飼野…現在の路線の「緑橋」と「今里」の間)と(当時の)「新工場」がある「守口松下」(今の「八雲」)を結びたかった…という話がある。

「松下の実験線」となった両線は、「城北地区」を中心に東西南北へと路線が伸びる形となり利用客が増え、1936(昭和11)年11月には、綴線新守口(大枝から改称)〜蔀屋間、本線守口松下〜枚方口(今の枚方)間を開業させている。それは大阪都市圏の拡大と、「北河内電鉄」が「蔀屋」を始発駅と定めたからである。


〜南部地域〜 南海鉄道と大鉄・大軌(参急)の縄張り争い 

一方、南部地域では、老舗の「南海鐵道」が、「金剛山」や「河南地区の歴史的古墳群」、果ては「五條・西吉野の木材」に目をつけ、進出しようとしていた。
この地域は当時「大阪鉄道(大鉄)」が鉄道路線を引いていたが、当時「霊峰」で参拝客の多かった「金剛山」へは不便だった。まず、「金剛山」に目をつけた南海は小会社「河内金剛鉄道」を設立し免許申請、1932(昭和7)年に、竜神東(今の南海堺の東側)〜千早(今の千早赤阪)間の金剛線を開業(今の葛城線)させ、旅客(列車は、南海難波または汐見橋発着)・貨物列車を走らせた。また、翌1933(昭和8)年には、三国ヶ丘信号所(今の三国ヶ丘北〜金岡間・廃止)〜大堀間の松堺線を開業させている。(今の河内線の一部)
大判〜西吉野間については、平石峠越えや「大鉄」の路線敷設計画などの関係で一時、開業が危ぶまれたが、西御所〜西吉野間で「大鉄」が乗り入れることで解決し、葛城線として1938(昭和13)年に開業した。(大鉄の乗り入れは僅か1年で中止となった。)

本線南部路線は、近畿一円に勢力を伸ばそうとした「大軌」(⇒参急)が和歌山進出を目指して設立した子会社「和泉急行電鉄」の手によって作られた。しかし、このまま和歌山までの路線を申請すると、「阪和電鉄」(京阪系)と免許が競合することとなり共倒れする危険があったため、安全策として「水間観音への参拝客輸送」を目的とした表向きの理由を作り、1935(昭和10)年に新世界〜水間観音(今の水間)までの路線を開業した。なお、なぜ狭軌(1067mm)にしたかについては諸説あるが、将来、「大鉄」を併合して、「南海」に対抗する鉄道網を作る予定だった…という説が有力らしい。事実、飛田(今の今池飛田)から分岐して「大鉄」の阿部野橋(今の近鉄南大阪線・大阪阿部野橋)へ繋がる路線の準備が整えられていたからである。
1939(昭和14)年には、水間観音(今の水間)〜熊取間の路線免許を申請。(開業は戦後になる。)そこから、「犬鳴電鉄」を買収、同社開業線(免許線を含め)を使って打出・伊太祁曽・さらには海南方面へ延伸する計画であった。また、北部も新世界から北進し、心斎橋付近をメインターミナルとする計画であった。


〜支線群〜 北河内電鉄と犬鳴電鉄 

戦前からある区間のうち、支線系の河内線の大部分は、「北河内電鉄」によって作られた路線である。
「北河内電鉄」は、鴻池財閥や枚岡神社の支援の元、河内地区を南北に縦断する鉄道として、1934(昭和9)年4月に開業した。
当時の計画では、(京阪)枚方〜蔀屋〜瓢箪山〜八尾〜柏原間を結ぶ予定であったが、開業資金の関係や、都心を全く通らないが故の経営上の不安などから、河内の中心部を固める…という意味合いを込めて、蔀屋〜瓢箪山〜八尾間で営業を開始した。
周辺の土地の値段が安かったので、乗客誘致の為に低価格の住宅地を販売するなどの営業努力、同社線と交わり都心へと向かう「關西電気鐵道」(北河内電鉄の開業から2年半後に、蔀屋へ延伸した。)や「大軌」(⇒参急)との連携などを行い、経営を安定化させる努力を行った。
しかし、軌間は狭軌(1067mm)であった。それは標準軌で敷設すると、同じ標準軌の「關西電気鐵道」や「大軌」に吸収されてしまうことを恐れた出資者たちが、独自性を保つために選んだ軌間であった。

最後に犬鳴線であるが、元の会社は「犬鳴電鉄」といい、実は「関西電鉄」を構成する6社の中では、1番創業が古い会社である。
開業は実に1912(大正元)年。「関西電鉄」を構成する会社の中では唯一「大正時代」の開業で(他はすべて昭和に入ってから。)開業時期は軽便鉄道だった。(その当時の会社名は「泉州軽便鉄道」)
「泉州軽便鉄道」は、特産の玉葱輸送を主目的として、南海鐵道佐野(今の泉佐野)〜熊取五門(今の熊取とは駅の位置が異なる。)間で開業。同時に旅客営業も行っていた。同社は、開業当時「非電化」だった。
業績はそこそこ好調に推移し、大正年間に和歌山県進出を企てる。当初は山東軽便の山東(今の伊太祁曽「いだきそ」)を目指すが紀ノ川の架橋に問題があり断念。途中打田までを計画線とし、1926(昭和元)年に山越えの手前、犬鳴温泉駅まで開通した。しかし、そこで改軌・電化等も有り資金が枯渇してしまう。なんとかその後は乗り切ったものの打田までの延長は夢物語になってしまった。また、改軌・電化(犬鳴温泉延伸と同時施工)後、社名は犬鳴電鉄と変わった。その後、「南海」と「和泉急行電鉄」による「買収合戦」が行われる事となる。


〜そして戦時体制へ〜 戦時統合と関西電鉄 

「關西電気鐵道」は1940(昭和15)年に、枚方〜高槻間を延伸する。この延伸計画は、国の意向が反映されたもので、省線(⇒国鉄⇒JR)の「東海道本線」と「片町線」を繋ぐバイパスとして「關西電気鐵道」を利用しようとしたものである。
他にも、親会社の「松下財閥」が、時の政府に「協力的」だった為、戦中も独立を保つ事が出来た。
また、政府に「協力的」だったのは「北河内電鉄」も同様で、同社自慢の複線線路を単線化したり、全金属製電車を鉄材として供出したり、技術者を戦地へ送ったり…とした為、その「みかえり」として独立を許されたのは、あまり知られていない「事実」であろう。
一方、南部の会社は、「犬鳴電鉄」を除いて1944(昭和19)年に戦時統合され「近畿日本鉄道」となった。
 (路線名は、河内金剛松堺線→近鉄松原線
       河内金剛金剛線/葛城線→近鉄金剛線/五條線
       和泉急行電鉄→近鉄水間線 に変わった。)
また、軍輸送を遂行するため、柴谷の貨物駅から平林の弾薬庫へ、また大堀から大正飛行場(今の八尾空港)までの貨物線を引かされるなど、各社とも、厳しい戦禍のなかで、過酷な輸送に耐えていた。
そして、終戦をむかえた。



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○戦後〜・いまの「関西電鉄」新発足から現在○

<現在の路線図>
(河南車庫仕様・公式のものとは違います。)


☆Index☆
〜終戦後〜 昭和20年代

〜復興期〜 昭和30〜40年代

〜発展期〜 昭和40〜50年代

〜成熟期〜 昭和50年代〜平成年代



〜終戦後〜 昭和20年代・今の関西電鉄の基礎 

1945(昭和20)年に終戦を迎え、戦時体制は「終わり」を告げた。
「平和な時代」を取り戻し、戦時統合された各私鉄はそれぞれ「独立」を模索するようになった。
戦前と同じ会社だった北部地域とは違い、南部地域ではちょっとした「混乱」があった。
それは、旧「河内金剛鉄道」と旧「和泉急行電鉄」の扱いだった。
「南海」が、「高野山鉄道」を母体として「近鉄」から独立する時に、旧「河内金剛鉄道」と旧「和泉急行電鉄」をどうするか…ということである。
それぞれの資本関係を保ったまま独立しようとすれば、お互いに競合路線を抱えてしまうからである。(旧「河内金剛鉄道」(南海系)⇔近鉄南大阪線/旧「和泉急行電鉄」(近鉄系)⇔南海本線)その為に、一時近鉄が「旧南海・河内金剛・和急電の独立を許さない」と発表、混乱した。
結局、当時のGHQの指示により、旧「河内金剛鉄道」と「和泉急行電鉄」は、「近鉄」が、「南海」以外の鉄道会社へ払い下げる…事で決着した。
引きうけ先に名乗りを挙げたのが「京阪電鉄」と「関西電鉄」(松下財閥から分離され、關西電気鐵道から改称された。)で、「京阪」はいわば「阪和電鉄」のリベンジ、「関電」は「規模拡大」の為…という理由だった。
結局、路線規模が小さい「関電」の経営安定を図る…という理由で、旧「河内金剛鉄道」と旧「和泉急行電鉄」は1948(昭和23)年5月「関西電鉄」の路線となった。
(路線名は、近鉄松原線→関電南河内線
        (金剛線堺〜三国ヶ丘(信)間含む)
       近鉄金剛線/五條線→関電葛城線(三国ヶ丘(信)〜西吉野・
       大判〜千早赤阪間は千早線)
       近鉄水間線→関電本線(南部) に変わった。)
こうして、現路線の「基礎」が作られた。
また、「関西電鉄」の路線となったため、「南海」に乗り入れしない新ルートで「柴谷敷津」までの路線を計画、1955(昭和30)年に開通した。堺東から旧「阪堺大浜線」の廃線跡をなぞって堺へ、そこから「八幡製鉄所(今の新日鐵前)」を経由、大和川を渡って平林の貯木場へ向かうルートである。(堺東〜八幡製鉄前間は旅客営業。)


〜復興期〜 昭和30〜40年代・関西電鉄の復興と発展 

「新生」関西電鉄は、まず、荒廃した路線・車両の復旧に勤めると共に、戦前から保持していた免許線の建設に乗り出した。
まず、旧「和泉急行電鉄」が路線免許を持っていた、水間(水間観音から改称)〜熊取間を1955(昭和30)年に開通させ、「犬鳴電鉄」の買収に取りかかり、和歌山方面への足がかりを築いた。(犬鳴電鉄は、1956(昭和31)年に「関電犬鳴線」となる。)
その後、旧「犬鳴電鉄」の路線の内“南”「本線」に組込まれた「熊取」〜「関西佐野(今の泉佐野)」は1958年(昭和33)に複線化と同時に昇圧(600V→1500V)化された。

しかし、最大の懸案事項は、旧「關西電気鐵道」の“北”本線と旧「和泉急行電鉄」の“南”本線同士を繋ぐこと、すなわち、鶴橋〜阿倍野方面の延伸であった。当時、大阪市内は「市営モンロー主義」(大阪市内の鉄軌道はすべて大阪市が経営する)の壁に阻まれて、免許が簡単に下りない状態だった。がしかし、南北両本線を繋ぐ事で大阪府下広域鉄道ネットワークが出来る利便性を主張した関西電鉄の努力が実り、1961(昭和36)年に、ついに鶴橋〜播磨町間が真新しい地下線で繋がり、本線から“北”“南”の文字が取れる事となった。

一方、「北河内電鉄」は、戦後からの復旧もままならず、厳しい経営環境にあった。このままでは「廃線」の危機に追い込まれるため、「北河内電」の経営陣は「他社に吸収され」て、路線を残す事を決めた。
合併相手は「関電」のほかに「近鉄」「京阪」の3社が名乗りをあげた。各社はそれぞれの「再建策」を提示しあって、自社の優位性を主張した。
  (各社から提示された吸収後の路線案)
結局、当初の目的は達成しないものの、堺と河内を結ぶ「関西電鉄案」に決定され、1963(昭和38)年10月に「関西電鉄河内線」として再スタートを切った。
また2年後の1965(昭和40)年に、大正飛行場(貨物駅・今の「八尾空港」駅付近)〜竜華間が開業、同時に旧「北河内電鉄」区間(蔀屋〜竜華間)が1500Vに「昇圧」した。


〜発展期〜 昭和40〜50年代・路線と直通運転の拡大 

この頃、「高度成長期」を迎え、乗客が増え、編成長も長くなり、路線の延伸、施設の改良が目白押しであった。
本線が一本に繋がってから、「四条畷線」を使って都心へ入ろう…とする乗客がじわじわと増えてはいたが、「四条畷線」のターミナルは「天~橋」で、繁華街の「梅田」に比べて客足は鈍く、関西電鉄は「梅田」進出を計画し始める。
ちょうどタイミング良く「大阪万国博覧会」が開かれる事が決まり、「万博」を目指して「梅田」への延伸工事が始まった。
そして「万博」を翌年に控えた1969(昭和44)年に、「梅田線」(赤川〜梅田間)が開業し、1800系(今の300系)が「梅田」へ向けて走り始めた。四条畷線は、梅田延伸によって急激に沿線開発が進み、今まで「2線級」の存在だったものが、一躍「ドル箱」路線に変貌していった。

一方、本線では、「金岡公園」(今の金岡)駅の大幅な「配線変更」が上げられる。
もともと「本線」と「葛城線」は、会社が違ったため、(本線=和泉急行電鉄・葛城線=河内金剛鉄道)本線と葛城線の相互直通運転が出来なかったが、葛城線沿線の開発が進み、沿線住民が増えるにつれて「相互直通」の要望が高まり、1966(昭和41)年に、金岡公園駅の高架化と共に「直通」出来る配線に変更、初の有料特急が「高槻〜西吉野」間で運転された。
また専用車両(シェルパカー)で本線〜葛城線間の直通列車の運転も開始し、それにより「旧線」は旅客列車はほとんど廃止されて「貨物連絡線」となった。(貨物輸送も1974(昭和49)年に廃止、旧線も撤去された。)
  (「金岡公園(→金岡)」駅の配線の変遷図)
支線の河内・犬鳴線では、「昇圧」(*1)によって「社型」の小型車が追放、本線・葛城線の車両に置きかえられて車両の大型化・体質改善が進んだ。また河内線の複線区間が一部復活(堺東〜八尾間・池島〜蔀屋間)した。

(*1・ちなみに旧「河内金剛鉄道」(葛城線および河内線南部)、南北本線はともに開業時より1500V電化で開業。)


〜成熟期〜 昭和50年代〜平成年代・「新しい」町作りへの挑戦 

本線では、「關西電気鐵道」が果たせなかった「北進」への挑戦が始まり、1970(昭和45)年に、高槻〜亀岡間の路線免許を取得、とりあえず住宅地として開発が始まった「高槻市北部」への足…として1976(昭和51)年に、高槻〜松が丘を開業させた。しかし、1973(昭和48)年から立て続けに起こった「オイルショック」や「不況」などの影響から、松が丘以北の路線は今だ開通していない。
また、旧「犬鳴電鉄」が持っていた、犬鳴温泉〜打出間の路線免許も、開業の目処が立たず失効、和歌山への道が絶たれた。
さらに、「近鉄」「南海」と共同開発しよう…と目論んでいた、西吉野〜十津川(〜新宮)間の「五新線」計画も、この頃に頓挫している。

しかし、四条畷線にとって最大の転機が訪れた。「関西学術研究都市」(学研都市)への延伸計画である。
1980(昭和55)年頃より計画が始動した「学研都市」へのメインアクセス路線として「四条畷線」を延伸して対応する事になった。しかし、当時の終点「蔀屋」から学研都市へ行くには「清滝峠」を超えなければならず、急勾配や長大トンネルが続く路線に対応する電車や設備が必要で、かなりの投資が必要だったが、1982(昭和57)年の昇圧を皮切に新車両の投入、高架化、「清滝トンネル」の貫通を経て、1990(平成2)年に、下田原まで開業した。さらに工事は進み、1993(平成5)年に、学研中央まで、そして1995(平成7)年には、蔀屋〜新祝園間が全通、「関西電鉄最大のプロジェクト」は完成し、「近鉄」との相互直通を開始、線名も「学研本線」に変わって、「幹線」に成長した。

本線はその後、1994(平成6)年に「関西国際空港」が完成し関西空港に乗り入れを開始、本線に「空港輸送」という新たな役割が与えられた。




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